瀧村 瀬戸口さんはさういふ事をおやりになったんですか?
内藤 瀬戸口さんがおやりになったから、今でも横須賀の軍楽隊でもそういう事が強いんです。ボートなどは軍楽隊が一番速かったんです。
青砥 大日本海戦を了えて「三笠」が帰ってきた時は、負傷兵が多く、人数が減ってゐた。入港はとに角景気よくやらうといふので楽隊をやったが、その軍楽隊が半分は負傷してゐたが、その半分で悲壮なる軍楽を奏したんです。
内藤 あの時は二十七人の中一ぺんに七人の軍楽隊員が死んだそうです。割合にして非常に多いんです。瀬戸口さんは運よく乗ってゐなかったんですね。
松島 黄海の海戦は八月十日でその時は本村四郎、丸山寿四郎と云ふ様な人が乗って居た。凱旋のちょっと前です。
青砥 爆沈の時は上陸してて命が救ったものですね。日本海海戦の時は八名で凱旋の音楽を奏したのです。それ程悲壮な音楽はなかった。楽器は少くないし人数もへっていて皆吹けなかったそうです。その時もですが昭和九年の大暴風雨の時は軍楽隊の人が番兵までしたそうです。つまり耳が利くから気が利くとでも云ふのか、重宝にされたのです。
松島 日露戦争の時も軍楽隊の戦死者は七名負傷は十一名それが第一艦隊だけですから全体の人数から云ふと随分多い訳です。
内藤 三十七年八月十日の海戦の時伏見宮を御救けしたのは軍楽隊ですよ。
山口 その時分は砲台長と云って居ました。
小林 東京分遣隊の設立の意義と云ふようなものを?……
藤咲 東京における使用の数も増えていくし管弦楽をもっとたくさん教育しなければいかんと云ふ見地からです。横須賀から派遣する事になった訳ですが、海軍省方面の必要に応じてすぐ派遣出来る様にと云ふ事もあった訳です。今まで横須賀で訓練を受けて居た者が、ポッと東京に出されると女の失敗を越さなかいという様な心配もあったけど、いよいよ移す事になったのは四十一年です。音楽学校委託生と云ったものです。その頃は田中豊明さんが居られました。