ことの発端は郎女(いらつめ)さんのブログ、郎女迷々日録 幕末東西のエントリ「君が代誕生の謎」でした。

今まではフェントンと「君が代」についての考察を読むと、ほとんど全てが

「ある日フェントンが「日本に国歌はあるか?」と質問し、聞かれた方が「ないです」と答え〜」という感じで、
ある日突然、まるで雑談の最中にでもふと気がついたかのようにフェントンが質問した感じなのですね。
ところが郎女さんの考察だと、雑談どころじゃない、英国領事とか偉い人から
エジンバラ公が来ることになったから、儀礼の演奏、よろしくな」(こんな軽い感じではないでしょうが(^^;)と命令され、
英国側の曲はいいけど、日本、大丈夫かよ?と親切だか職業的良心だかで質問してきた、“必然性”が発見されたわけです。

このときフェントンが質問した相手を凡百の書き手たちは、前後の事情なんて知ったこっちゃないから、
軍楽を学びに来た薩摩藩士たちと書いているのが多いわけです。
しかし郎女さんはエジンバラ公来日前で薩摩藩士32名はまだ来ていない、接伴掛に質問したのでは?と書いている。
さらに接伴掛の原田宗助が、軍楽学習の下準備に来ているリーダー格にも相談したかも、と。

わー、面白い指摘だーと思い、前々から古本屋で見ていた

小田切信夫 著「国歌君が代の研究 (昭和四十一年訂正再版)」平凡社刊を買う決心がついたのですよ。

そしたらその272ページに

記念碑の思い出

昭和十五年十月二十日、東京九段の軍人会館で「国歌君が代六十周年奉祝記念大会」を主催した時、私の「国歌君が代の由来」という講演中「明治三年九月八日、越中島に於ける薩長土肥四藩大訓練の際、フェントン作曲の『君が代』が明治天皇の御前で初吹奏されました」という一節に、特別な関心を持たれた方が、

「私こういう者で深川区越中島の者ですが、わが郷土越中島が『君が代』初吹奏の地とは先生の御講演によりはじめて伺いました。帰りましたら有志とはかり、記念碑を建てたいと存じますから其の説は何分よろしく」

と申されたが、文部省から東京高等商船学校校庭相生橋橋畔五十坪を無償で提供してもらい、ラッパと太鼓を図案化した台石の上へ稲田産花崗石総高二十九尺、重量七千貫の「君が代初吹奏之地」という記念碑建設正に成らんとした時、内務省から「明治三年四月十七日に駒場野で初吹奏云々と海軍省の記録にあるから、九月八日の初吹奏は許す訳にいかぬ」と難題を持ちかけられ「先生に御解決いただきたくお迎えに上がりました」というわけで上京深川区長と同車内務省に参り、

「英国ロンドンのベッソン社へ註文した軍楽器の到着が明治三年六月というのに四月十七日どうして初吹奏が出来ますか、明治三年六月という証拠書類は御覧の通り」でケリがつき、いよいよ建設という段取りになった際、太平洋戦争勃発により、初吹奏の「君が代」譜敵国英人フェントンの作曲によるものであるというので、予定碑銘は妥当でないとし、近衛文麿公爵揮毫になる「明治天皇聖蹟」というのに決定、昭和十九年六月七日に除幕式が行われ、私も招待を受け、明治丸の甲板に於ける祝賀会では「先生の御講演がもとで此の記念碑もたちました。御研究大変でした」と名刺も一にぎりもいただき、愉快な一日を過ごさせていただいた。

とありまして、
「駒場野?京王井の頭線の駒場東大前駅の駒場?」
と疑問に思い、調べてみる気になりました。

しかし“駒場野”よりも“明治三年四月十七日”のほうがより具体的なのでそっちで検索してみましたら、
越中郷土史家さんのブログ近世越中国のお話が一発でヒット。東京で初めて行われた天覧調練だそうです。
そこに

東京郊外駒場野天覧操練A
に「一、八名 楽手」

東京郊外駒場野天覧操練B
に「楽手長 志賀猶五郎」

さらに「東京郊外駒場野天覧操練Aには

一、朝五字号砲二発にて御出馬被遊候に付、前軍之諸隊礼式を行ひ、直に進軍之事
一、二重橋江御出被遊候節前軍の諸隊礼式致行楽譜を奏し、砲一声を以順序に進軍可致事
(間があって)
一、還幸之節各隊之在陣江整列、御通行之節は前軍礼式を行ひ、楽譜を奏し、号砲一発を以斉く凱歌三声相発、畢而号砲二発各帰営之事
 右之条々堅可相守事

とあり、なんか演奏しているのですね。

んで今度は「志賀 猶五郎」で検索してみると石川県立図書館のページが見つかります。

近世越中国のお話さんの書き込みはどうも
「「出兵守衛一件」『加賀藩史料』 第16編の2 P1103,1185,1196」のどれかのようで、
近所の図書館で「『石川県史』 第2編 P984」を読んでみると戊辰戦争で活躍した鼓手として名が挙がってました。

戊辰戦争で朝廷側に付いた藩の鼓手が、天覧調練で藩の楽手長を任じられたのは、別に不思議ではありません。

さらに検索してみると、ネットギャラリーというサイトの「駒場野之風景」という錦絵がヒットします。
しかしこの絵だけでも楽手は八名以上いまして、金沢藩の楽手なのか?と不明です。
また他のサイトを探してみますと、この絵は全体の一部に過ぎず、少なくとも他に二つ楽隊がいることがわかります。
(まぁ絵はどこまで正確かは解りません。楽手の数が賑わいに増やされている可能性も、あると思います)
(ちなみに東京郊外駒場野天覧操練@には第二聯隊、第三聯隊、第八聯隊の三部隊は「英式」とあります)

さて、次に私が思い出したのは、googleのブック検索機能です。
この検索欄で「明治三年四月十七日」と入力しますといろいろ出てくるのですが、
その中の一冊和田信二郎 著「君が代と万歳」に興味が引かれまして、近所の図書館のopacで探してみますと
繁下和雄 編集「君が代史料集成 第4巻」大空社で復刻されているのが解りました。
読んでみますと、冒頭の小田切先生に異議を唱えた内務省役人の言っていた「海軍省の記録」が採り上げられていまして、
「海軍軍楽隊沿革史料 明治二十年十二月編纂、写本一」なんだそうです。そして92ページに

それには明治二年鹿児島藩兵上京して神田一ツ橋に屯在して横浜屯在の英国楽長フェントン氏に就き軍楽を習った。其の樂曲は英国国歌・行進曲・国歌君が代等であるというような事が書いてあります。
ところが其の書の次の年の條を見ますと、明治三年四月十七日駒場野で行はせられた操練の天覧に際し、フェントン氏に「君が代」の曲譜を編製せしめて吹奏したとあります。此の記事に拠ると明治三年に新にフェントン氏に作曲せしめたという事になりまして、前年の記事と矛盾を来します。

「明治三年四月十七日、駒場野に於いて諸藩兵の操練を天覧し給ふに當り、奉祝すべき国歌の譜なきを以て、フェントン氏をして君が代の曲譜を編製せしめ、以て吹奏す。(蓋し西洋樂器を以て国歌吹奏するは是を始めと為す)」

と、和田氏は混乱が解決しないまま、とにかく知った事実を書き、後の判断を読者にまかせています。
(「海軍軍楽隊沿革史料」という手がかりを入手したぞ!)

そしてもう一冊googleブック検索機能で気になった小西四郎 著「明治の新政」講談社刊、これは図書館で調べましたら
小西四郎 著「錦絵幕末明治の歴史 第5巻 明治の新政」講談社刊で、読んでみると幕末から明治時代に描かれた錦絵で、風俗とか情景を集めた本でした。
この本の105ページにネットギャラリーさんとは別の絵の「駒場野大調練之図」がありまして、説明文で参加兵員は1万8千人とありました。
当然鼓笛隊も描かれています。

さらに図書館内を歩いていましたら、「日本初期新聞全集」ぺりかん社刊というシリーズを見つけまして、
27巻目を見てみましたらかなりのことが太政官日誌に書かれていました。
楽手のことはありませんでしたが、参加した藩に鹿児島藩(!)があったり、東京郊外駒場野天覧操練Bに名が挙がっている総代聯隊長の池田弥市氏は佐賀藩だとか。
一方で29巻目太政官日誌に、越中島のことは数行しか書かれていなかったりします。雨で途中中止になったからでしょうか。

あとついでに、図書館の音楽書コーナーに行ってぱらぱら背表紙を眺めていましたら、
塚原康子 著「十九世紀の日本における西洋音楽の受容」多賀出版刊を発見、ぱらぱらページをめくりますと…
目次に「海軍軍楽隊沿革史料」についての項目を発見、読んでみますと…

あら、塚原さんもこの中の「明治三年四月十七日」の記述には言及しているのですね、そして
「楽器がないのに演奏できるはずがない」と小田切先生と同じ事を言って、「別の天覧調練と間違えたのか?」と書いています。

そこで(ここで)ようやく私の意見(想像)なんですが、

フェントン版「君が代」で大勢の人が書いている、
「フェントンは日本語が出来なかったからあんなふうに作曲してしまったのではないか」
という意見は踏み込みが甘く、
実はフェントンは明治二年七月の段階で
「この先、いつ外国から国賓が来るかも解らないし、いつ楽器が完備されるか解らない。
また楽器が来たところで破損してしまったら修理もままならないだろう。
となれば、現時点で日本に存在する楽器で演奏できるように作らないと、拙いんじゃないか!」
と考えたのではないでしょうか?

あの楽譜なら、当時のメロディー楽器でも十分演奏できるでしょう?調はともかくとして。

小田切先生も塚原氏も、「明治三年四月十七日にベッソン社から楽器は届いていない」ということで判断をしてますが、
じゃぁ実際に駒場野大調練で楽手たちが何を吹いたのかには興味を示していないのですね。
在京している藩の多くが駒場野調練に兵を送り、薩摩藩・鹿児島藩も部隊を送っている、そこに妙香寺の楽手たちは、本当に参加していなかったのか、
もし参加していなくても、国歌という概念に注目していた誰かが金沢藩やその他藩の楽手たちにフェントン版「君が代」の楽譜を渡さなかったのか。

それを調べないといけませんな。

以下は「君が代」には関係なく、私自身のことも含めてのことなんですが、

日本の吹奏楽の歴史を調べていますと、
日本各地に「洋楽発祥の地はココ!」とアピールしている所をいくつも見つけます。
「洋楽」と言っても鼓隊、鼓笛隊、喇叭隊とかで、幕末に軍の近代化を図った藩が独自で取り入れていたわけですね。
しかしそれらの主張を検証していたらキリがないから、フル編成の楽隊として薩摩藩軍楽隊をスタートとしようじゃないか、
ということにした、と思っています。
つまり、軍楽史・吹奏楽史の真スタートをとりあえず薩摩軍楽隊として、鼓隊・鼓笛隊・喇叭隊はプレ吹奏楽史として扱うと。
ところがそのことによる弊害が出てきまして、薩摩軍楽隊が生まれてからの鼓隊〜への言及は、ほぼ無くなってしまうのですね。
もちろん多くの藩が戊辰戦争で財政が逼迫したため廃止・自然消滅したってのも有り得るのですが、今回の調査で解ったように
金沢藩のように八名でも楽手を養っていた藩は、あるわけですよ。
しかも
「日本に軍楽が取り入れられたのは軍の近代化、行進の練習のためだ」という一般論は盛んに言われますが、
廃藩置県が実行されて軍権が中央政府に集まった後、いちいち行進の練習に軍楽隊が出勤するか?
明治政府になってもたかが行進の練習なら鼓隊〜で十分だろうし、軍楽隊は文明開化の花形として軍の広報宣伝に引っ張りだこだったわけだ、
何故一般論を簡単に無かったことにしてしまうんだ?
また郎女さんから薩摩藩にも軍楽伝習前に鼓隊〜があったことを教えてもらえまして(我ながら今さら!)、今回の調査で薩摩藩士たちが
横浜から薩摩に一旦戻った時にも鼓隊〜を指導していたみたいだし、また薩摩藩から横浜(?いつまで横浜で練習してたんだ?)への人員補充も、
薩摩在郷鼓笛隊が活躍していたようで。
塚原さんクラスの研究者なら当然知っていたし、郎女さんもくだらない吹奏楽史の常識に縛られていないから真っ直ぐその事実に辿り着いていた。
誰か視点の違う人と協力していないと、簡単に陥穽に嵌ってしまうんだな〜。

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