ずっと以前から、私は音楽家の「お金がない、収入が足りない」という発言を聞く度に腹を立てていました。

 収入が思うように入らないとき、商人ならどうするか。

 演奏会のチケットやレコード、CDの単価を上げて高利益にするか、単価を下げて売る数を増やす、

つまり薄利多売にするか、単純にこの二通りのやり方があります。

 ならば音楽家が、演奏会のチケットの値段を上げるか。いやいや、今でさえ世間の常識では値段が

高いと言われている。ならばチケットの発売枚数を増やすか。それは座席数に制限されている。

 しかし、考えてみれば劇場の座席数というものは「消防法」に定められているのです。政治家や役人、

消防署と交渉して音楽会に関しては消防法の適用を緩和して貰うことはできないか。

 かつて故・黛敏郎氏や故・芥川也寸志氏達が「上野の奏楽堂の移転問題」に奔走したとき、堂々と政治家に

仲介を頼み、芸大の経営者達と交渉をしている。そして現代でもクラシック音楽演奏会に足を運んだり、

興味を持っている政治家は数多くいる。それなのになぜ、吹奏楽団の経営者や演奏家達は政治家や役人に

交渉をとろうとはしないのか。

 そう思っていたら、別な方面の舞台芸術関係者、演劇人の平田オリザ氏の著作「芸術立国論」に

興味深いことが書かれている。

「日本には、図書館法があり、美術館法があり、博物館法がある。しかし、劇場法は存在しない。

法の有無について様々な意見があるだろうが、上記三方では図書館・美術館・博物館それぞれの責任において

入場者数が自分で決められる。なのに劇場は創造活動にも保存活動にも関係のない法律・消防法に

従わなくてはならない。法の下、一人前扱いされていない、という言い方も出来る」という感じの主旨です。

 ちなみにインターネット検索で「劇場法」を探すと、演劇人の携わっているサイトがたくさん見つけられる。

 演劇人にとっては「劇場法」の制定は、少なくとも音楽人よりは切実な要求だと思われる。

 その後、宮崎隆男氏の著書「「マエストロ、時間です」〜サントリーホールステージマネージャー物語〜」を

読むと、音楽専用ホール・サントリーホールを設立するに当たって、まさに役人にかけあい、

「立ち見席の増設」を成功させている。席数にすればわずかだが、ほんの数席とみるか、

交渉の結果の第一歩とみるか、それは人それぞれだろうが、私は確実な一歩だと思う。

 そしてさらに、倉田公裕氏の著作「博物館の風景」では、歴史的な博物館の設立主旨が書かれている。

 博物館の歴史的な始まりは、王侯貴族や金持ちが、美しいモノや珍しいモノを集め、他人に見せびらかす場で

あった。しかし、時代が下がり、量が増えてくると、モノとモノの関連性や共通項、時代の背景など、

モノそれ自体だけでなく、モノにまつわる物語に注目するようになる。そして広域に分布しているモノ達を

一堂に集め多くの人に遠くの物語や過去の物語を伝えるという役割を帯びるようになる。

 このことは横浜のブリキのおもちゃ博物館館長の北原照久氏の言動や著作「北原主義の愉しみ」を

すでに読んでいた私には、容易に理解できた。

 そして宮崎氏も倉田氏も、演奏家や学芸員は「用館家」としての見識を持っているものだし、また持たなくては

いけない、と指摘している。すなわち、音楽ホールや博物館の建設を決定する人達(政治家であったり役人で

あることが多い)、建築の設計をする人達、そして実際に建物の中で動き回る人達、この三者が対等な関係を

結ぶことが出来ないと、生きた場、ずっと生き続ける場にはならないのだと強く主張しているのだ。

 しかし、現実の音楽家達はホールの使い勝手について不平を述べることはあっても、本分は演奏活動だと

して、きちんとした発言をする人はほとんどいない。発言をしても決定者や建築家が演奏家や学芸員の言葉を

まともにとりあげることはない、と諦めている。(そしてそれが現実である)

 しかし、劇場が図書館・美術館・博物館の域にまで達せられるかは、別問題だと思う。

 図書館には分類法が決められているし、美術館も博物館もただのモノの陳列から館の意志や意図を伝える

展示こそ存在理由だと認識されているが、劇場は、すなわち貸しホールであり、作品を作曲家に委嘱することは

あっても、自らが演奏団体や作品を収集・蒐集することは、ありえない。

 日本の美術館の歴史においても、作品の陳列場・企画者(とうぜん外部の者)への貸し場であった時代が

あったらしい。しかし、現代では常設展・企画展ともに美術・博物館の主催で、作品を借りた企画展はあるが

自前で購入したモノとのバランスは、必ずとる。

 そしてその努力が社会教育の一端を担うと社会から認知されたとき、助成金が国や自治体からおりるのである。

 モノづくりのためのモノづくりでもあるし、生活の糧を得るためのモノづくりでもある、という意識を踏まえた上で、

早く社会へ発言する義務と権利を自覚しなければ、結局は個人の活動とみられ、社会性(地位や名誉)は

認められるわけがない。(国際性ではなく、法的な国内性)

(ちなみに「学校」は教育活動の場と見なされているから、役所としては文部科学省の管轄であるが、

「塾」はお金儲けの企業と見なされているため、通産省の管轄にある。

 日本のコンサート会場も(文部科学省管轄下の?)教育文化施設協会の管轄下にあり、ここに睨まれ

教育上好ましくないと思われたら、演奏会場として使わせて貰えなくなったりする)

 自分たちの行動の、主観と客観が一致しているのかずれているのか。その判断をしない者にとって、

現代社会ってのは住みづらい世の中になっているのだろうなぁ。自分の殻に閉じこもるというのも

一つの方法だが。(このサイトのこと?)

商売に戻る

目次に戻る