もう日本でも随分前から「世の中、うるさくなった」という意見は耳にしていました。
電車のしつこいアナウンス、お店や街の通りのB.G.M.、などです。
私自身は鈍感なのか慣れてしまったのか、スピーカーから流れてくる音は
たいてい聞き流していますし、勤めていた店で有線放送のスイッチを入れ忘れて開店し、
しばらくして(なんか空間が重たいな)と感じ始めてから気がつき、あわててスイッチを入れることも
しばしばありました。
たまたまその「重たい空間」を感じたとき、ちくま新書「人生の装飾法」松崎憲三 編を手に取り、
『音や光は空間装飾の一手法である』という内容の意見を読み、感覚が言語化され、一つ腑に落ちました。
ところが最近、花伝社「よみがえれ球音 これでいいのかプロ野球の応援」渡辺文学 著という本を見つけ、
B.G.M.などは当然のこと、プロ野球の私設応援団の音もうるさい、やめろ、という意見を目にし、絶句してしまいました。
なるほど、確かに「うるさい」というのはその人が迷惑がっているという意思表明だし、応援団の者が一般のお客さんに
エラソーに命令したり、不快な言動を叩きつけることは止めさせるべきだとは思う。
しかし、私は応援団吹奏楽部の出身で、学生時代はそれなりの数の野球応援(部活動の野球です)をしてきたし、
集英社「東京大学応援部物語」最相葉月 著も読んだ、「よみがえれ球音」を見つけたときに一緒に
講談社出版サービスセンター「コンバットマーチと甲子園」宮川茂 著も見つけ、読んだ。
(この本は、早稲田大学で始めた「コンバットマーチ」を、
高校生の吹奏楽団が全国で初めて応援に取り入れた話です)
もっと言えば、日本史上初めて野球の応援に吹奏楽団を取り入れたのは、早稲田大学と慶応大学なのに、
早稲田大学を卒業した宮川氏も、止めろ意見の転載を許可した大橋巨泉氏(この人は早稲田大学中退)も、
その大学野球の応援団の存在には何一つ意見を言わず、プロ野球の私設応援団にだけ文句を言うのは
なぜなのか、と正直反発しました。
しかし反面、「なぜ吹奏楽団が野球の応援をしなくてはならないのか?」という問いに対して、どれだけの
吹奏楽経験者が宮川氏にきちんと説明できるのか疑問ですし、私だって自信がありません。
なるほど、戦時中までの軍楽隊がやっていた兵士の士気高揚の延長線で、観客は応援をすることで選手に
力を分け与え、応援団のリーダー、バンド、チアたちはその触媒の役割を果たすと言葉にするのは簡単ですが、
この平成の世の中、野球を娯楽として考えるならば、選手や球団を中心として観客を二の次とするのは
興業としてはまずいだろ、という反論がすぐに返ってきます。モノゴトの楽しみ方とは作り手が受け手に
押しつけるものではなく、受け手が作品(この場合は試合ですな)の中から自分なりの楽しみ方を見つけ、
その数や種類の多さが作り手に刺激を与えるのが現代の常道でしょうし、そもそもプロの野球選手・球団が
観客にエラソーな言動をぶつける私設応援団を支持するわけが無い。というか、私設応援団は無ければ無いで、
自然発生してくる声援以上のものを求めているのかという検証が全くない。それは宮川氏も書いているし。
まぁプロ野球の現場のことは私も知らないことが多すぎるので深くは関われないが、近年多くの吹奏楽団が
いわゆる「ブラバン」的な社会的評価から抜け出そうと、「ウィンド・アンサンブル」等へ意識を移していることを
多く見るが、「野球応援の演奏」というものは総括できるのだろうか?「ウィンド・アンサンブル」になったところで
ブラバン的行動の一つ、「野球応援」という実体からは逃れられないのではないだろうか?
アメリカのウィンド・バンドもウィンド・アンサンブルも、少なくとも日本のようなスポーツ応援はしないだろうから、
日本のような野球応援:吹奏楽編は、日本人が文化として確立しなくてはならず、日本の「ウィンド・アンサンブル」が
プロ野球の私設応援団に、良くも悪くも物申すようになって初めて、意識改革に歩を進めることになるのだと
思うけどなぁ。
高校野球の応援中、「うるさい!」と文句を言ってくる人に無下に応対するバンドは、『ブラバン』ケテーイです。
(尚、私はブラバンという呼称に違和感も嫌悪の念も持っていず、吹奏楽団の野球応援は吹奏楽の活動の一環だと
思っておりますので、「よみがえれ球音」と「コンバットマーチと甲子園」の二冊は、吹奏楽・軍楽参考図書に
入れております。この一項も「吹奏楽史」に入れました)